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東京地方裁判所 平成2年(ワ)16396号 判決 1992年3月31日

原告

平井嘉春

右訴訟代理人弁護士

小野寺昭夫

被告

株式会社 三正

右代表者代表取締役

満井忠男

右訴訟代理人弁護士

伊東正勝

登坂真人

主文

一  被告は、原告に対し、五〇万円及びこれに対する昭和六三年一〇月一二日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを六分し、その一を被告の負担とし、その余を原告の負担とする。

四  この判決の一項は仮に執行することができる。

事実及び理由

第一請求

被告は、原告に対し、三〇〇万円及びこれに対する昭和六三年一〇月一二日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要

一原告の主張

1  原告は東京弁護士会所属の弁護士であり、昭和六二年一二月から平成元年一一月まで懲戒委員会の委員をしていた。

2(一)  伊藤静雄及び同安子夫妻(以下、両名を「伊藤夫妻」という。)は、別紙物件目録(二)記載の建物(貸ビル)(本件建物)を所有していたが、その敷地である別紙物件目録(一)記載の土地(本件土地)は借地であった。

(二)  被告は不動産業を営む会社であるが、昭和五八年一一月、前所有者から本件土地を買い受け、土地賃貸人たる地位を引き継いだ。そこで、伊藤夫妻は被告に対して地位を支払っていた。

(三)  伊藤夫妻は、昭和六〇年三月、本件建物の四階の一室を娘夫婦である橋場英男及び同潮美夫妻(以下、両名を「橋場夫妻」という。)に賃料月額五万円で賃貸した。

(四)  原告は、伊藤夫妻の訴訟代理人として、本件建物の五階部分の賃借人リッショー電産株式会社に対し、賃料不払いを理由とする賃貸借契約の解除に基づき明渡訴訟を提起した。

(五)  ところで、原告は、伊藤夫妻の代理人として、被告に対し、本件建物の老朽化を理由に建替を申し出た。これに対し、被告は、逆に、本件土地の賃借権(本件土地賃借権)の買取りを申し出た。

そこで、伊藤夫妻の代理人である原告と被告の営業部長である小野乙彦との間で交渉が重ねられ、昭和六二年一月、次のとおりの合意が成立した。

① 被告は、本件土地賃借権と本件建物とを代金合計一四億一〇〇〇万円で買い取る。

② 被告は、前記リッショー電産株式会社を除くその余の本件建物の賃借人六名について賃貸人としての地位を引き継ぐ。右リッショー電産株式会社に対する明渡訴訟は引き続き伊藤夫妻において追行し、明渡しを完了させて、これを被告に引き渡す。

なお、右代金一四億一〇〇〇万円は、本件土地の坪単価を七〇〇〇万円とし、これに本件土地の面積31.64坪を乗じ、その積に更に借地権割合0.8を乗じ、この積から本件建物の賃借人に対する立退料として三億六一八四万円を控除した金額である。

3  被告は、昭和六二年一一月ころ、橋場夫妻に対し、本件建物からの立退きを求めた。

そこで、橋場夫妻は、被告との交渉を原告に委任し、原告は、そのころから翌昭和六三年五月ころまでの間、橋場夫妻の代理人として、被告の社長室長石井馨らと交渉したが、立退料についての合意ができず(原告は当初三〇〇〇万円を、のちに一五〇〇万円を要求し、被告は五〇〇万円を提示したにとどまった。)、結局、交渉は打ち切られるに至った。

右石井馨らは、その後橋場夫妻に対して直接立退きを要求するなどしていたが、橋場夫妻はこれに応じないでいた。

4  被告は、昭和六三年一〇月一二日、東京弁護士会に対し、別紙懲戒請求書のとおり、原告の懲戒を請求した(本件懲戒請求)。

その理由は、「①原告は、前記リッショー電産株式会社に対する明渡訴訟において、形式的には伊藤夫妻の訴訟代理人であったが、実質的には本件建物の新所有者となった被告の訴訟代理人であった。そうとすると、原告が橋場夫妻の代理人となったことは、弁護士法二五条二号の双方代理の禁止に違反する。②原告は、橋場夫妻の代理人として被告と交渉中、先に伊藤夫妻の代理人として本件土地賃借権等を被告に売却した際に知り得た契約上の秘密(特に売買価格の決定経過等)を主張し、もって同法二三条の守秘義務に違反した。③更に、原告は、国民一般に対する弁護士への依頼を著しく喪失させた。これは、同法五六条一項にあたる。」というものであった。

5(一)  しかし、右①ないし③が理由のないことは明らかであり、現に、東京弁護士会綱紀委員会は、平成二年三月一二日、原告を懲戒手続に付さないことを相当とするとの議決をしている。

(二)  被告は、本件懲戒請求に理由がないことを知りながら、橋場夫妻の立退きを容易に達成するため、あえて原告の懲戒請求を行ったものである。

6  原告は、被告の不当な本件懲戒請求により多大な精神的苦痛を被った(特に、原告は、本件懲戒請求当時、懲戒委員会の委員であった。)。原告の右精神的苦痛を慰謝するには三〇〇万円を下らない。

二被告の主張

1(一)  原告は、被告が本件建物を買い取った昭和六二年二月四日以降は、実質的には、本件建物の新所有者(新賃貸人)となった被告の代理人としての地位にあったものである。原告は、この地位に基づいて、被告の利益のために、前記リッショー電産株式会社に対する明渡訴訟を引き続いて追行し、また、橋場夫妻に対しても立退明渡交渉を行ったものである(原告と被告とは、これより先の昭和六二年一月一九日、橋場夫妻に対する立退明渡交渉を原告が行うこととする旨の合意をしていた。)。しかるに、原告は、その後橋場夫妻の代理人となって被告との交渉にあたっていたものであるから、右は弁護士法二五条二号の双方代理の禁止に違反する。

(二)  原告は、伊藤夫妻の代理人として、本件土地賃借権等の売買交渉を被告と行ってきた。したがって、原告は、本件建物の賃借人に対する補償額を被告と伊藤夫妻との間でいくらとしたか等について契約上の秘密を知っていた。しかるに、原告は、橋場夫妻の代理人として被告と交渉中、この補償額を記載した書面を示して、この金額を立退料として賃借人に分配するよう要求したものであって、右は、弁護士法二三条の守秘義務に違反する。

(三)  更に、①原告は、伊藤夫妻の代理人として本件土地賃借権等の売買交渉を被告と行っていた間、橋場夫妻が伊藤夫妻の娘夫婦であることをことさら被告に告げず、これを隠していた。②また、原告は、橋場夫妻の代理人として被告と交渉中、昭和六三年六月ころ、伊藤夫妻とともに、被告の従業員石井馨に対して、橋場夫妻の要求をそのまま受け入れなければこの書面を他の賃借人にも配付するなどと言って、恐喝まがいの言辞を弄した(尤も、この点については、被告の平成三年一二月一二日付の準備書面(八頁)では、「伊藤夫妻が右石井馨に対して補償額を他の賃借人にもバラしてやる旨述べた際、原告は、右発言を制止するどころか、「そんな風にやられちゃあ、三正も困るよな。」と述べて、伊藤夫妻の右言を助長し、右石井を威圧した。」となっている。)。右①及び②の行為は、弁護士への信頼を著しく喪失させるものとして弁護士法五六条一項に該当する。

2  被告の本件懲戒の申立ては正当であって、事実的、法律的根拠を欠くものではなく、仮に、然らずとするも、被告は事実的、法律的根拠を欠くものであることを知らなかった。

第三当裁判所の判断

一証拠(<書証番号略>、証人石井馨、弁論の全趣旨)によれば、次の事実が認められる。

1  原告は昭和四〇年四月に弁護士登録をした東京弁護士会所属の弁護士であり、各種委員会の委員等をつとめて現在に至っているが、その間の昭和五〇年一二月から同五四年一一月までは綱紀委員会委員(昭和五二年一二月から同五四年一一月までは副委員長)、昭和六二年一二月から平成元年一一月までは懲戒委員会委員であった。なお、原告は、昭和五三年四月から東京北簡易裁判所の調停委員もしている。

2(一)  伊藤静雄及び同安子夫妻(伊藤夫妻)は、昭和四四年一〇月、別紙物件目録(二)記載の建物(通称丸伊ビル)(本件建物)を土地賃借権(本件土地賃借権)付きで前所有者亀山テグス株式会社から共同で買い受けた(伊藤静雄持分四二分の三一、伊藤安子持分四二分の一一)。本件建物はいわゆる貸ビルであり、また、その敷地である別紙物件目録(一)記載の土地(本件土地)は古屋英子らの所有であった。(<書証番号略>)。

(二)  被告は不動産業を営む会社であるが、昭和五八年一一月、本件土地に賃貸用の自社ビルを新築する目的で、前所有者古屋英子らから本件土地を買い受け、本件土地の新所有者となるとともに、その賃貸人たる地位を承継した(<書証番号略>)。

(三)  伊藤夫妻は、昭和六〇年三月、本件建物の四階の一室を娘夫婦である橋場英男及び同潮美夫妻(橋場夫妻)に対し、賃料月額五万円、賃貸期間同年四月一日から二年の約束で賃貸した(<書証番号略>)。橋場夫妻は、その後月額五万円の賃料を支払っていた。(<書証番号略>)。

(四)  原告は、伊藤夫妻の代理人として、昭和六一年一一月、本件建物の五階部分の賃借人であったリッショー電産株式会社に対し、その賃料不払いを理由として賃貸借契約解除の意思表示をし、翌昭和六二年、東京地方裁判所に明渡訴訟を提起した(<書証番号略>)。

(五)(1)  原告は、伊藤夫妻の代理人として、被告に対し、本件建物の老朽化を理由としてその建替を申し出た。しかし、被告は、前記のとおり本件土地に賃貸用の自社ビルを新築する予定であったことから、逆に、本件土地の賃借権の買取りを申し込んだ。

(2) そこで、伊藤夫妻の代理人である原告と被告の営業部長である小野乙彦との間で交渉が重ねられ、昭和六二年二月四日、次のとおりの合意が成立した(以下、これを「本件土地賃借権等譲渡契約」という。)。なお、この合意の成立当時、本件建物内には橋場夫妻を含めて七名の賃借人がいた。(<書証番号略>)

①伊藤夫妻は、本件土地賃借権及び本件建物を代金合計一四億一〇〇〇万円で被告に譲渡する。

②本件建物及び本件土地は全て現況有姿のまま被告に引き渡す。

③被告は、本件建物の賃借人のうち前記リッショー電産株式会社を除くその余の六名の賃借人について賃貸人としての地位を伊藤夫妻から引き継ぐ。同賃借人らに対する立退交渉は、新賃貸人である被告において行う。右リッショー電産株式会社に対する明渡訴訟は引き続き伊藤夫妻において行う。

(3) なお、右代金一四億一〇〇〇万円は、本件土地の坪単価(更地)を七〇〇〇万円と評価し、これに本件土地の面積約31.64坪を乗じ、その積に更に借地権割合0.8を乗じ、この金額一七億七一八四万円から本件建物の賃借人に対する立退料に充てられるものとして三億六一八四万円が控除されて、決められた金額である(<書証番号略>)。

(4) 被告は、本件土地賃借権等譲渡契約成立時に三億円を、その後同年三月三日に残金一一億一〇〇〇万円を支払い(<書証番号略>)、翌同月四日、本件建物について所有権移転登記を受けた(<書証番号略>)。

(5) 原告は、伊藤夫妻の代理人として、橋場夫妻を含め本件建物の賃借人全員に対して、賃貸人の地位が伊藤夫妻から被告に移転した旨の通知をした(<書証番号略>)。

(六)  前記リッショー電産株式会社に対する明渡訴訟は、昭和六二年三月二日の第一回口頭弁論期日において和解が成立し、リッショー電産株式会社は賃貸借契約が前記解除によって終了していることを認め、同年八月末日までに本件建物の五階部分から退去して明渡すことを承諾した(<書証番号略>)。

3(一)  被告は、右明渡訴訟終了後の昭和六二年三月三一日ころ、橋場夫妻に対し、本件建物の老朽化と再開発を理由として賃貸借の解約を申し入れ、六か月以内にその賃借部分(四階の一室)を明け渡すよう求めた(<書証番号略>)。

これに対して、橋場夫妻は、原告を代理人に選任し、被告との交渉を依頼した。

原告は、被告の右解約の申入れに対して、本件建物の老朽化と再開発には理解を示したものの、直ちには明渡しに応じられない旨を回答した(<書証番号略>)。

(二)  橋場夫妻の明渡し問題については、その後昭和六二年一一月から橋場夫妻の代理人である原告と被告の社長室長である石井馨らとの間で交渉が行われたが、原告は、同月二〇日ころ、立退料として三〇〇〇万円を要求し(立退時期は昭和六三年五月一五日)、その理由として、被告が本件土地賃借権及び本件建物を伊藤夫妻から買い取るに際して本件建物の賃借人に対する立退料に充てられるものとして控除された金額や、橋場夫妻の建物の使用目的等を考慮して右金額を算出した旨述べた(<書証番号略>)。

(三)  その後も原告と右石井馨らとの間で交渉が続けられ、原告は立退料の要求を一五〇〇万円にまで下げたが、被告は五〇〇万円を限度とする旨答えて譲らなかった。

(四)  原告は、右石井馨らとの交渉において、本件土地賃借権等の譲渡代金額の決定にあたり賃借人の立退料に充てられるものとして三億六一八四万円が控除されている旨を指摘し、これを賃借人に分配すべきであると主張した(<書証番号略>)。

(五)  その後、昭和六三年六月一五日ころまで原告と右石井馨らとの交渉は続けられたが、被告は、同年七月上旬ころ、原告との交渉を弁護士伊東正勝及び同登坂真人に委任した。

同弁護士らは、同年八月一日ころ、伊藤夫妻に対し、「本件土地賃借権等譲渡契約においては、リッショー電産株式会社を除くその余の賃借人に対する被告の明渡交渉について伊藤夫妻が積極的に協力してその実現をはかることが当然の前提となっていたものであり、譲渡代金額も右の協力を得られることを前提として決められたものである。」旨主張し、「その使用権原が使用貸借であると考えられる橋場夫妻を伊藤夫妻において早急に立ち退かせるよう」求めた(<書証番号略>)。

これに対して、原告は、同年八月九日ころ、伊藤夫妻の代理人として、右伊東弁護士に対し、本件土地賃借権等譲渡契約においては被告主張のような前提はなく、むしろ賃借人との立退交渉は被告の責任において行うこととされていた旨を指摘し、そのために本来の譲渡代金額から賃借人の立退料に充てられるものとして三億六〇〇〇万円余が控除されたものである旨、そして賃借人の立退料に充てられるものとして三億六〇〇〇万円余が控除されていることからすれば、橋場夫妻が要求する前記立退料額は決して高いとはいえないことを述べて反論した(<書証番号略>)。

4  こうした中、被告は、右伊東弁護士らと相談の上、昭和六三年九月三日ころ、原告に対して、弁護士会に対する懲戒請求及び損害賠償請求訴訟を行う用意がある旨を通知した。その理由は、判然としないが、「①原告は、本件土地賃借権等譲渡契約に基づいて、実質上被告の代理人としてリッショー電産株式会社に対する明渡訴訟を行っているが、他方で橋場夫妻の代理人となって被告と交渉をしている。②また、原告は、本件土地賃借権等譲渡契約の交渉過程において知り得た被告と伊藤夫妻の間の契約上の秘密を橋場夫妻の立場で具体的に主張した。③更に、原告は、本件土地賃借権等譲渡契約の交渉過程において、橋場夫妻が伊藤夫妻の娘夫婦であることを秘匿して被告に告げなかった。これら①ないし③の行為は、弁護士倫理に反するばかりでなく、双方代理にあたり、守秘義務にも違反する。」というものであった。(<書証番号略>)。

これに対して、原告は、同月六日ころ、被告に対し、「①リッショー電産株式会社に対する明渡訴訟は、本件土地賃借権等譲渡契約三条に基づく売主伊藤夫妻の契約上の義務として行ったものであって、法形式としても実質的にも被告の代理人として行ったものではない。②契約上の秘密を主張したものではなく、橋場夫妻の代理人として協議をしたものである。③橋場夫妻が伊藤夫妻の娘夫婦であることは本件土地賃借権等譲渡契約の交渉過程において前記小野乙彦に伝えてある(原告が右小野に対し右契約の締結前に橋場夫妻の明渡し問題を解決するか否かを尋ねたところ、同人は右契約締結後に協議したい旨述べている。)。」旨主張した(<書証番号略>)。

5(一)  被告は、右伊東弁護士らと相談の上、昭和六三年一〇月一二日、東京弁護士会に対し、別紙懲戒請求書(本件懲戒請求書)のとおり、原告の懲戒を請求した(本件懲戒請求)。

その理由は、必ずしも判然としないが、「①原告は、前記リッショー電産株式会社に対する明渡訴訟において、形式的には伊藤夫妻の訴訟代理人であったが、本件土地賃借権等譲渡契約の成立後は、実質上は、本件建物の新所有者となって賃貸人の地位を引き継いだ被告の訴訟代理人であった。しかるに、原告は、その後橋場夫妻の代理人となって被告と交渉にあたったものであるから、右は、弁護士法二五条二号の双方代理の禁止に違反する。②原告は、橋場夫妻の代理人として被告と交渉中、本件土地賃借権等譲渡契約の交渉過程で知り得た被告と伊藤夫妻との契約上の秘密(特に、本件土地賃借権等の譲渡代金額の決定にあたり賃借人の立退料に充てられるものとして控除された金額)を具体的かつあからさまに主張し、もって弁護士法二三条に違反して職務上知り得た秘密を漏らした。③のみならず、原告は、Ⅰ本件土地賃借権等譲渡契約の交渉過程において、橋場夫妻が伊藤夫妻の娘夫婦であることをことさらに秘匿して被告に告げず、Ⅱまた、橋場夫妻の代理人として被告と交渉中、昭和六三年六月ころ、被告の担当者に対して、橋場夫妻の要求をのまないならこの書面(右控除立退料額が記載された書面)を他の賃借人にも配付するなどと申し向けて恐喝的言辞を弄した。右Ⅰ及びⅡは弁護士法五六条一項の弁護士としての品位を失うべき非行にあたる。」というものであったと解される(<書証番号略>)。

(二)  しかし、被告は、本件懲戒請求書を東京弁護士会に提出した際、正式な受理をしばらく待って欲しい旨要求し、同弁護士会はこれを容れて正式受理をしばらく待っていた。

(三)  なお、被告は、本件懲戒請求書を提出する直前、伊藤夫妻に対して、原告の懲戒請求をした旨の通知をした(<書証番号略>)。

6  前記伊東及び登坂両弁護士並びに松坂裕輔弁護士は、被告の代理人として、昭和六三年一二月六日ころ、橋場夫妻に対し、「①同夫婦の本件建物の占有権原は使用貸借であり、それ故新所有者である被告には対抗できない旨、②橋場夫妻は本件建物の四階の一室のみならず五階部分をも使用しているが、これは契約違反であるので、二日以内に五階部分を明け渡すこと、もし明け渡さなかった場合には、本件建物の四階一室の使用契約を解除する旨」等を通知した(<書証番号略>)。

これに対して、原告は、橋場夫妻の代理人として、被告に対し、「①橋場夫妻は本件建物の四階の一室のみならず五階部分をも正当に使用していること、適正な立退料の支払いがあれば、橋場夫妻は右四階及び五階を明け渡す用意があること、②被告は橋場夫妻に対し執拗に直接明渡し交渉をしているが、これは同夫妻に対するいやがらせであるから、橋場夫妻の方から調停を申し立てる予定であること、③原告に対する本件懲戒請求は、橋場夫妻の明渡しを実現する手段として行われたものであり、原告と橋場夫妻との信頼関係を切り崩す目的でなされたものであるから、懲戒請求権の濫用であること」等を主張した(<書証番号略>)。

7(一)  原告は、橋場英男及び伊藤静雄の代理人として、昭和六三年一二月二六日、本件建物の四階及び五階の各一部について橋場英男が賃借権を有することの確認を求めて東京簡易裁判所に調停を申し立て(昭和六三年(ユ)第三六二号)、併せて、調停前の措置として、被告が橋場夫妻等に直接面談しないことを求めた。右調停の申立てに対して、相手方である被告は、前記伊東弁護士らを代理人に選任してこれに応訴した。(<書証番号略>)

(二)  右調停については、平成元年三月一七日、要旨次のとおりの調停が成立した。「①被告と橋場夫妻とは、両者間の賃貸借契約を同日合意解除する。②被告は橋場夫妻に対し明渡しを同年五月一〇日まで猶予し、立退料として六五〇万円を支払う。③橋場夫妻は右明渡しに至るまで賃料相当損害金として一か月五万円を被告に支払う。④被告は、橋場夫妻の明渡しに関し原告が橋場夫妻を代理する権限を有していたことを追認する。」(<書証番号略>)。

8(一)  これより先の平成元年一月一〇日、東京弁護士会は本件懲戒請求を正式に受理して綱紀委員会の調査に付していたが(平成元年東綱第一号)、被告は、右調停成立後の同年三月二七日、本件懲戒請求の取下書を東京弁護士会に提出した(<書証番号略>)。

(二)  しかし、東京弁護士会綱紀委員会会規一八条は「懲戒の請求が取り下げられ、又は懲戒請求人が死亡したときでも、調査手続は、終了しないものとする。」と定めているため、右綱紀委員会は調査を続行し、その結果、翌平成二年三月一二日、原告を懲戒手続に付さないことを相当とする旨の議決をした。これを受けて、東京弁護士会は、同年五月三一日、原告を懲戒委員会の審査に付さないこととした。被告はこれに対して日本弁護士連合会に異議の申出をしなかった。(<書証番号略>)

以上の事実が認めらる。

二判断

1  右認定の事実によれば、①原告が橋場夫妻の代理人としてその委任事務を処理することが双方代理にあたらないこと、②原告が被告と伊藤夫妻との契約上の秘密を漏らしたことにならないこと、③原告に弁護士としての品位を失うべき非行があったとはいえないことは、前記綱紀委員会のいうとおりである。すなわち、

(一) 被告は、前記(第三の一5(一)①)のとおり「原告は、リッショー電産株式会社に対する明渡訴訟において、形式的には伊藤夫妻の訴訟代理人であったが、本件土地賃借権等譲渡契約の成立後は、実質上は、本件建物の新所有者となって賃貸人の地位を引き継いだ被告の訴訟代理人であった。しかるに、原告は、その後橋場夫妻の代理人となって被告と交渉にあたったものであるから、右は、弁護士法二五条二号の双方代理の禁止に違反する。」旨を懲戒事由として主張した。

しかし、前認定のとおり、原告は、被告の委任を受けてその代理人となったことはなく、また、伊藤夫妻の訴訟代理人として行ったリッショー電産株式会社に対する明渡訴訟についても、本件土地賃借権等譲渡契約成立後は譲渡人たる伊藤夫妻の被告に対する右契約上の義務の履行として引き続き行っていたものであって、被告の委任を受けて行っていたものでなく、実質的にみてみるとしても、原告が被告との信頼関係に基づいて右明渡訴訟を追行していたものとは未だいえない。そうとすると、原告が右リッショー電産株式会社に対する明渡訴訟の終了後新たに橋場夫妻の代理人となって被告との交渉に臨んだとしても、それは未だ双方代理とはいえないというべきである。被告の右主張は法律的または事実的根拠を欠くもので、採用することができない。

なお、証人石井馨は、被告が本件懲戒請求で主張した右懲戒事由とは異なり、「建物賃貸人伊藤夫妻の代理人である原告が他方でその賃借人である橋場夫妻から委任を受けてその代理人となることが懲戒の事由となると考えた。」旨証言しているが、右は本件懲戒事由と異なるものであって、本訴においてその判断の必要を認めないが、仮にこの点を措くとしても、賃貸人である伊藤夫妻と賃借人である橋場夫妻との間に具体的に紛争が生じ、これについて原告が双方を代理したわけではないから、右双方代理をいう点はあたらない。

(二) 次に、被告は、前記(第三の一5(一)②)のとおり「原告は、橋場夫妻の代理人として被告と交渉中、本件土地賃借権等譲渡契約の交渉過程で知り得た被告と伊藤夫妻との契約上の秘密(特に、本件土地賃借権等の譲渡代金額の決定にあたり賃借人の立退料に充てられるものとして控除された金額)を具体的かつあからさまに主張し、もって弁護士法二三条に違反して職務上知り得た秘密を漏らした。」旨を懲戒事由として主張した。

しかし、原告が伊藤夫妻の代理人として被告との間で本件土地賃借権等譲渡契約を結び、それ故に当然知っていた本件賃借権等の譲渡代金額や右代金額の決定にあたり賃借人の立退料に充てられるものとして控除された金額を橋場夫妻の代理人として被告との交渉中に指摘し、右控除額を賃借人に分配すべきであると主張したとしても、もともと原告と被告との間に委任、信頼関係はなく、また、その指摘、主張の相手方が第三者でなく被告であることにも鑑みると、それは未だ被告との関係において秘密の漏洩にはあたらないというべきである。被告のこの点に関する主張も法律的または事実的根拠を欠くものであって、採用することができない。

(三) 更に、被告は、前記(第三の一5(一)③)のとおり「原告は、Ⅰ本件土地賃借権等譲渡契約の交渉過程において、橋場夫妻が伊藤夫妻の娘夫婦であることをことさらに秘匿して被告に告げず、Ⅱまた、橋場夫妻の代理人として被告と交渉中、昭和六三年六月ころ、被告の担当者に対して、橋場夫妻の要求をのまないならこの書面(控除立退料額が記載された書面)を他の賃借人にも配布するなどと申し向けて恐喝的言辞を弄した。右は弁護士法五六条一項の弁護士としての品位を失うべき非行にあたる。」旨を懲戒事由として主張した。

しかし、Ⅰ<書証番号略>、弁論の全趣旨によれば、本件土地賃借権等譲渡契約の交渉過程において原告が被告に橋場夫妻が伊藤夫妻の娘夫婦であることを告げなかった事実はなく、却って、原告は、昭和六二年一月中旬ころ被告の営業部長前記小野乙彦に対して橋場夫妻が伊藤夫妻の娘夫婦であることを告げている事実が認められ、原告が右小野に対して、右契約の締結前に橋場夫妻の明渡し問題を協議し解決するか否かを尋ねたところ、右小野は右契約締結後に改めて橋場夫妻と交渉したい旨を答えていることが認められるのであり、Ⅱまた、<書証番号略>によれば、原告が被告の社長室長前記石井馨らと交渉した際、昭和六三年六月一五日ころ、同人らに対し、賃借人の立退料に充てられるものとして控除された金額の説明のために金額が記載されたメモなどを示したことは認められるけれども、それ以上に、「橋場夫妻の要求をのまないならこの書面を他の賃借人にも配布する。」などと申し向けた事実は本件証拠上認め難いから(証人石井馨の証言は措信しない。)、被告の右主張はいずれも事実的根拠を欠くものである。

2(一) 右のとおり、被告の本件懲戒請求は法律的または事実的根拠を欠くものであった。

(二) そこで、更に進んで、被告がそのことを知りながらあるいは相当の調査、検討をすれば通常人において容易にそのことを知り得たのに、あえて本件懲戒請求をしたといえるか否かについて検討する。

まず、本件全証拠によるも、被告が本件懲戒請求が法律的または事実的根拠を欠くものであることを知りながらあえて懲戒請求をしたとの事実を認めることはできない。

しかしながら、いやしくも弁護士について非違行為ありとして懲戒請求をしようとする以上、その法律的及び事実的根拠について相当の調査と検討をすべきであり(「高度の調査、検討」までは必要ないであろうが、「通常の調査、検討」では足らず、「相当の調査、検討」が要請されるというべきである。)、安易な懲戒請求は許されないものというべきところ、この観点から本件をみるに、被告が原告の懲戒事由として主張する前記第三の一5(一)の①及び②については、いずれも主として法律問題であるが、既に前記第三の二1の(一)及び(二)で説示したところに徴すると、被告の立場に立った通常人であれば、右の各主張が綱紀委員会において採用され得ないものであることは容易に知り得たものということができ、また、前記第三の一5(一)③についても、そのⅠの点は、<書証番号略>の記載を検討し、これを作成した前記小野乙彦に十分に確かめる等の相当の調査、検討をすれば、原告が被告に橋場夫妻が伊藤夫妻の娘夫婦であることを告げなかった事実はないことが(少なくとも、告げなかった事実があるというにはなお相当の疑問が残ることが)容易にわかったはずであり、また、Ⅱの点についても、<書証番号略>のメモを十分に検討し、これを作成した前記石井馨に当時の記憶を正確に喚起させれば、原告が「橋場夫妻の要求をのまないならこの書面を他の賃借人にも配布する。」などと言った事実はないことが(少なくとも、言った事実があるというにはなお相当の疑問が残ることが)容易に分かったはずである(現に、前記(第二の二1(三)②)のとおり、被告は、本訴においては、「石井馨に対して補償額を他の賃借人にもバラしてやる旨述べたのは伊藤夫妻であり、原告は、その際、「そんな風にやられちゃあ、三正も困るよな。」と述べたものである。」旨主張しているのである。)。そうすると、被告の本件懲戒請求は、原告に対する関係では違法行為となり、不法行為を構成するというべきである。

(三) なお、被告は、本件懲戒請求をなすにあたり予め前記伊東弁護士らに相談し助言を求めているが、右は本件懲戒請求の違法性をなんら左右するものではない。

3  なお、また、被告がなした本件懲戒請求の主たる目的は、①被告が本件懲戒請求書を提出した際正式な受理をしばらく待って欲しい旨要求していること、②被告は、伊藤夫妻に対し、原告の懲戒を請求した旨をわざわざ書面で通知し<書証番号略>、また、橋場夫妻に対しても、「平井弁護士も大変なことになる。」、「立ち退けば懲戒請求を取り下げる。」旨述べていること<書証番号略>、③被告は、橋場英男との調停が成立するや、本件懲戒請求の取下書を東京弁護士会に提出していること、等に鑑みると、弁護士の非違行為を正そうとするよりも、むしろ、当時なされていた橋場夫妻との明渡し交渉を自己の有利に展開しようとするところにあったものと認めるのが相当である。現に、証人石井馨自身も、「本件懲戒請求書をすぐに正式受理にしてもらわなかったのは、橋場夫妻の明渡しが解決すれば取り下げようと思ったからである。橋場夫妻の明渡し問題を解決したいから本件懲戒請求をしたのである。」旨証言しているところである。

4  最後に、原告の損害について判断する。原告が本件懲戒請求によって答弁書(<書証番号略>)等の提出を余儀なくされ、一年余にわたって被調査人の立場に立たされたこと、特に原告は本件懲戒の請求を受けた当時東京弁護士会の懲戒委員会委員の立場にあったもので、その精神的苦痛は大きなものがあったと推認されること、他方、被告の本件懲戒請求の主たる目的は右認定のとおり橋場夫妻に対する明渡し交渉を自己の有利に展開しようとするところにあったものと認められること、等に徴すると、本件懲戒請求による原告の精神的苦痛を慰謝するには五〇万円をもってするのが相当と思料される。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判官原田敏章)

別紙物件目録<省略>

別紙懲戒請求書<省略>

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